■原発も政治も無関心だった私
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原子力発電に興味を持ったのは、福島の事故後 |
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2011年3月11日の事故で、放射能漏れが伝えられてからです。
チェルノブイリの事故は対岸の火事でしたし、このさいたま市で放射能漏れ事故が起き、1999年に土壌汚染が発覚したこと、2012年の今も約4万本という放射性廃棄物が保管されていることも、知りませんでした。 |
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抗議アクションへの参加は2012年から |
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最初に参加したのは、2012年初頭の官邸前抗議。
まだ参加者が少なく、歩道の片側半分を使っていた頃です。
そもそも情報収集に関心がなく、デモや抗議活動が起きていることすら知りませんでした。
知り合いの一言で、全ては始まりました。
デモ参加はその後。
芝公園スタートの1000万人アクションです。
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無関心、諦め、無行動 |
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それまで「デモ」といったら、親世代が行なっていた学生運動。
そして近年では、教育関係者が行った私学助成デモしか知りません。
「デモって、なにか意味があるの?」
「昔の過激な時代ならまだしも、歩いているだけじゃん」
「政治家なんて勝手にやっているんだから、国民の声なんて聞くわけ無いよ」
これが、これまでの私です。 |
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“お試し”から始まった |
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知り合いから抗議活動をやっていることを聞き、「無意味かどうか、やらずに考えるより参加して内側から考えてみよう」と思い、官邸前に向かいました。
最初は、本当にお試しだったのです。
もともと動かない私が「お試し」に動いたのは、前年に参加した東北ボランティアが関係しているかもしれません。
気が遠くなるような、復興までの道のり。
海岸から遠く離れた陸上に流されてきた大型の船。
見渡す限りの破壊。
それでも多くのボランティアが駆けつけ続けています。
1年半たった今でも。
1人ができることは、ほんとうに小さいことでした。「微力」という言葉にすら及ばないように感じます。
それでも、その積み重ねが大きな結果に繋がる。
積み重ねが必要なんだと、改めて実感しました。
ここから、官邸前抗議への参加が始まります。 |
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運命のつぶやき。「脱原発中野も」との出会い |
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Twitterで、あるつぶやきを見つけました。
東京都中野区で、脱原発チームを作る……と。
中野は、私の通勤途中にある駅です。
「どこかでやっているから、参加しよう」だった私が、「もう少し内側に入ってみよう」というきっかけになりました。
2012年5月末、中野駅を降りて「なかのZERO」へ。
最初の会合がありました。
Twitterや口コミで集まった方々、数十人。
「とりあえず興味があったから覗きに来た」という感じで、お互い見ず知らずな集まりです。
そこから毎週末、集まるようになりました。
回を重ねるにつれ、常連メンバーも決まってきました。
どんなデモを行うか、アイデアを出し合いました。
区内の掲示板にチラシを貼って回ったり、駅前で配ったりもしました。
「見ず知らずの集まり」が、「大切な仲間」になっていきました。 |
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別団体のお手伝い |
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自分たちのアクションを主催する前に、「原発やめろ野田やめろデモ」が新宿で行われました。
「脱原発中野も」からも、主催者側のお手伝いに参加。
これが、主催者側になった最初です。
サウンドカーの警備と、万が一トラブルが起きた際の動画撮影を担当しました。 |
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「脱原発中野もパレード」実施 |
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そして7月28日。本番当日。
参加者、のべ1,300人。
私は第一グループの先導を担当し、警察とやりとりしながら事故が起きないよう警備を行いました。
隊列と走行する車との間、ひかれないように要注意です。
このパレードは、YouTubeに数々載っています。
よろしければ、ご覧ください。 |
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「国会包囲網」警備 |
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翌29日、反原発連合主催によるデモ&国会包囲網が行われ、警備スタッフとして参加。
東京で「脱原発」が加速している。それを目の当たりにしました。 |
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「脱原発さいたま市」立ち上げへ |
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一参加者としての自分、そしてチーム発足からアクション主催までを体感してきた自分。
たくさんの仲間と出会い、脱原発の心と出会い、「脱原発さいたま市」を立ち上げます。
そしていつの日か、脱原発さいたま市の参加者から主催者が生まれたら良いなと、タンポポの種が風に乗り各地に花を咲かすように、脱原発の種が日本中に、世界中に広がって花咲くようになったら良いなと思います。 |
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